2019年12月30日月曜日

忙しすぎる一年でした

 27日が仕事納めで、その晩実家に向かい、28日に恒例の餅つきをし、自宅に戻って来ました。今年は試験勉強と屋根工事でなかなか大掃除が進まず、最後の最後までバタバタとしています。

 昨日は買い物(JAの直売所へ野菜を買い出しに)と通常の掃除+テレビ台の掃除をし、今日は年末最後の買い物と台所の大掃除をし、明日のおでんを仕込みました。明日はまさかの窓拭きです。大晦日に窓拭きが残ってるなんて初めてです。でも、それさえ終われば無事年が越せます。

 こうして最後までバタバタしているように、今年は本当に忙しすぎて何もできない一年でした。特にプライベートな部分が犠牲になりました。

 1.体調維持、2.仕事、3.家事、4.手話と優先順位をつけているものの、毎週手話の講座に行くために段取りや宿題に時間を割き、家事(特に掃除)は手を抜けないので休日を費やし、調子を崩さないよう睡眠時間は削れない、遊びに行って疲れてはいけない・・・となると、自分のことが全然できないようになりました。

 今年は高野山にも行けず、友達にバースデーカードをもらったお礼の手紙も、例年11月に前の主治医に書いている近況報告も出せませんでした。スケジュールをこなすことに気持ちがいっぱいで、ゆったりと大事なことに向き合うことができないのがつらかったです。

 手話通訳の勉強は来年も続く予定(毎週)です。12月にはまた試験も受けます。その中で、時間に追われ予定に追われていつもスイッチが入った状態でなく、時にはスイッチをオフにして自由な時間を持つことが絶対に必要です。こういう状態が長く続くと病気が出るのは分かっています。

 正直、毎週晩に講座に行くなんて無理です。もう二度とこんな無理はしたくないと思っています。でも来年も講座は続くのです。どうしてもしなければならないことが人生にはあるのです。

 やらなければならない事ばかりというのがダメだと、病気になってわかったはずです。自分のことは自分がコントロールしているという感覚を取り戻さなければいけません。勉強は続けても、時間とやることに追われても、コントロール感を取り戻せたら何とかやっていけるはずです。

 これを来年の課題とします。

12月21日 今年最後の神戸へ

 診察をかねて次男と今年最後の神戸に行ってきました。

 中村哲さんが亡くなってからどうも力が出ないことや、試験のこと、屋根工事が終わったことなどを話しました。試験や工事で家のことが後回しになり、大掃除があまり進んでいないので焦ってもいます。

 「がんばらないといけないですね」と言うと、「がんばらないでください」と返って来ました。何か胸に沁みるものがありました。

 でも、やっぱりがんばっちゃうかな…。


 診察後、マヒシャでランチして、ちょうど入港している練習帆船 日本丸を見に行きました。


汽船 銀河丸

帆船 日本丸

 その日はちょうど日本丸の一般公開をしており、乗船して甲板を見学してきました。ワクワクしました。

 今年最後なので、お正月の買い物もして帰路につきました。

12月9日 屋根工事が終了



 丸一か月をかけて屋根の葺き替え工事が完了しました。

 屋根屋さん、大工さん、板金屋さん、左官さん、足場屋さん、それに工務店の担当さん。とても大勢の職人さんにお世話になりました。お陰さまで無事大事業を終えることができ、ホッとしています。

 まだ手を入れたいところはあるのですが、それはもう急ぐまいと思っています。とにかくあと10年働いて、お金を貯めてからです。

12月7日 試験からのルミナリエ

 「試験勉強ができない」と言い続けていた手話通訳の試験を受けてきました。試験は3つ。筆記試験と手話を見て内容をまとめる要約の試験は多分合格ラインを越えたと思いますが、場面通訳の試験が全然できませんでした。来年もまた試験を受けねばなりません。

 試験が終わって、自分の課題ははっきり見えてやる気が出てきました。今年できなかったところを強化すればいいんですから。勉強が続くと時間が無くなるし体力は奪われるし体調管理が難しくなるし、本当に大変なんですが、やるしかない。がんばります。

 試験の後、ルミナリエを見てきました。今回で25回目のルミナリエ。現在はLEDの灯りですが、当初は電球の灯りが使われていました。今回メモリアルゾーンが設けられ、電球の作品が一部ありました。







12月4日 中村哲さん銃撃され亡くなる


 中村哲さんの突然の訃報に衝撃を受けました。中村さんのことを知ったのはいつだったでしょう。もう覚えていないくらい昔のことです。その頃中村さんは井戸を掘っておられました。医師として赴き、子どもたちが清潔な飲み水がないために病気になり、死んでいく現実に向き合い、日本の市民の援助を得て現地の人々と井戸を掘り始めたのです。

 戦争や民族間の争いが絶えず、タリバンやISの台頭、アメリカの対テロ組織攻撃など、中村さんが活動されていた地域は不安定な世界の情勢の最前線でした。それでも、すべての日本人スタッフを帰国させた後も、中村さんは一人現地にとどまり、自ら水路の建設現場に立ち続けました。

 命に危険が及んでいることを中村さんはご存知だったと言います。銃を持った警護が常に同行する日常でも、現場に行くことをやめなかったのです。たとえ明日死ぬとしても、今日自分がすべきことをする。中村さんはそう決めておられたような気がします。

 志半ばでたおれ、無念でしょう。でも、日々すべきことをやり抜いて天に召されたのですから、全うされたとも言える気がします。中村さんの生き方を忘れません。

 忘れないことで、中村さんは生き続けるのです。