もっと良い看取りがしたかったと思っていました。ちゃんと看取られずに死んでいった人が可哀想でなりませんでした。それでも、出来るだけのことをしたという思いもあり、私が看取ったとも思っていました。
死にゆく人は、看取られる人。看取る・看取られる関係の中で、死にゆく人は受け身の存在なのでしょうか。
なんだか、ちょっと違うんじゃないか。死にゆく人も、主体的に死を生きると言えるのではないか。この頃、そんな気がしています。
作家の三浦綾子さんは、晩年パーキンソン病を患い、介護を受けながら暮らしておられました。執筆ができなくなってから、「私には死ぬという大切な仕事が待っている」とおっしゃっていたそうです。
柏木先生は、「こう言っては何かもしれませんが・・・」と前置きして、「一人一人には、死ぬ力があるのです」とおっしゃいました。
死んでいく力・・・確かにそうでした。苦痛と孤独に耐え、死を生き抜いた亡き人は立派だったなと思います。
でも、どんな気持ちで一人で死に向き合っていたのだろう、どうしてその気持ちを聴こうとしなかったのだろうと、私には後悔が今もあるのです。
死ぬことにも力がいるいし、自分で亡くなり方を考えることもできるということですね
返信削除>かずっちさん
削除小林麻央さんも自分らしく死を生き抜かれた姿が感動を呼んでいると思います。
手厚い緩和ケアを受けて旅立った麻央さんも、たった一人で苦痛に耐えて死を生き抜いた大切な人も、同じように死を乗り切る力があったと思うのです。
「死を生きる」「死を生き抜く」というのは私の造語で、変な感じがするかもしれませんが、私にはしっくりくる言葉なのです。